それは2006年10月、呼吸リハビリテーションの大家、アメリカ、ロサンゼルスHarbar-UCLA Medical Centerのカサブリ先生のところに留学した時の話です。
ラボでわたしに部屋が与えられました。
わたしよりも前にラボに来ていた韓国の男の先生と同室でした。仮にA先生としましょう。
A先生とは、本当に色んな話をしました。
わたしはあまり英語が得意ではなかったので、A先生は紙に絵を描いて下さったり、色々の手段でわたしとコミュニケーションを取ろうとしてくれました。
だから1人で留学したわたしも、寂しいと思うはありませんでした。
ある日A先生が言うのです。Junko、どうしてここに来たの。
教授に言われたからかなあ。
Junko、そんな話をきいているのではないよ。日本からこんなに遠くまで、地球の反対側まで、お金もかかったでしょ、それなのにここまで来たのは、何かあったと思うよ、と言うのです。
考えてみました。
そして思い出したのです。
それは留学より7年ほど前の話です。
イタリアに学会発表に行っていたので、新しい勤務先の病院に3日遅れで出勤しました。
イタリアで生水を飲んで、ひどい下痢になり、寝込んでいたのですが、やっと飛行機に乗って帰国したことを昨日のことのように思い出します。
新しく担当する患者さんの紹介を受けて、呼吸器内科が担当している患者さんのカルテをチェックして、帰国早々忙しい日々が続いていました。
部長から、横隔膜を動かす神経を、癌をとるために切ったので、自分で呼吸ができなくて、人工呼吸器が外せないことになっていた患者さんのことをききました。
主治医にアドバイスを、と言われました。まずは主治医と一緒に診ていくことになりました。
が、人工呼吸器は外せませんでした。
そこで部長に頼んで、わたしが主治医になることにしました。
私が初めてその方にお会いした時には、すでに人工呼吸器がついていらしたので、私はその方の声をきいたことがありませんでした。
せっかく癌をとったのに、人工呼吸器が一生ついているって、何かがおかしいと思ったのです。
その頃は、まだ人工呼吸器が大きかったので、人工呼吸器がついているということは、その部屋から出られない、ということを意味していました。
医師になって7年目の私は、頑張ればどんな事でもなんとかなると思い込んでいた血気盛んな時でした。
何かできる事はないかと、考えました。
ベッドサイドに来てくれていた理学療法士さんに相談しました。
本院でお世話になっていた理学療法士さんでした。
わたしにできることはあるのでしょうか、と。
翌日から、新米の理学療法士さんと一緒に、呼吸のリハビリテーションを教わりました。
まだ呼吸リハビリテーションが保険診療になっていない頃の話です。
時間がかかりました。
一番がんばったのは言うまでもなく患者さんです。
呼吸の状態は一進一退を繰り返しました。
そして横隔膜が動くようになったのです。
とうとう、その日が来ました。
その患者さんは、毎日の呼吸のトレーニングで、人工呼吸器が外せたのです。
患者さんの声を初めてききました。
その時まで、筆談でコミュニケーションをとっていたのです。
初めて声をきいた時の感動は一生忘れません。
次の年、転勤で赴任した病院ででも、保険診療にはなっていませんでしたが、呼吸リハビリテーション、頑張りました。
患者さんにはマッサージという名前で呼ばれていましたが。
看護師さんたちも呼吸リハビリテーションを一生懸命覚えてくれました。
わたしのことを手伝ってくれようとしてね。
そのお陰で、看護師さん達が分からないことがあると、日曜日でも病院に呼び出されました。
何でもするって言ったじゃないって。
日曜日も勉強会をひらいて、呼吸リハビリテーションの手技が一定のレベルを保つ仕組みを作ってくれたのです。
そうやって、わたしと一緒に、患者さん、その家族に指導するのを手伝ってくれました。
呼吸の研究会で、1年生の看護師さんが、堂々と、呼吸リハビリテーションを一定水準の主義にする取り組みと、症例報告をしてくれました。
1000床規模の病院の呼吸器内科の先生に質問されて、堂々と答えてくれて。
うれしかったなあ。
それだよ、それ。A先生は、言いました。
しっかりその思い出したことを覚えておくんだよ。
A先生は満足そうにそう言ったのでした。
その時から、わたしが呼吸リハビリテーションを仕事にした訳、をきかれたら、このように答えることができるようになりました。